いのうえメモ

時々、投稿しています。思ったことを書きます。自分用メモになりがち汗。

cue カレイドスコープ初回限定版

スマホゲームcueの初回限定版シングル、カレイドスコープを七枚買った。

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このCDの中に、担当声優の直筆サイン入りキャラクターカード、または普通のキャラクターカードが入っているのだが、

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七枚中、四枚がサイン入りだった。びっくりした。

しかもそのうちの三枚がチームflowerのものという。それもびっくり。

こんなに出るなんて運がいいのか、元々サイン入りの数が多いのかどっちかだろうけど、多分元から数が多いのかな。

このカード以外の特典もあり、ゲームで使えるコードやクリアファイルと、あと、なんて言うのかわからないカードも入っていた。


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一番の推しのキャラクターカードは出なかったけど、これだけサイン入りが手に入ったので、満足。

新人声優のサイン入りなので、将来売ったらプレミアがつくかもしれない、絶対売らないけど。


以上。

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人と話したい

人と話さないで、一人でいる時間が長いのは、人が嫌いなわけではない。
むしろ人に話しかけられれば、笑顔で応じることは出来るし、嬉しいや楽しいと思える。

なのに、自分から動いてまで人と関わろうとしなかった。
そうして人との関わりが減っていき、その結果、対人能力が低下していき、自分の世界が肥大していき、人との空気間の共有も難しくなっていった。

本当は人と話したいのだと思う。本心は。
だって、友達とか恋人を作って楽しそうにしている。青春を送っている人達に憧れを持って、羨ましく思ったりすることがあるから。
自分もそういう青春や人付き合いの充実した生活が欲しいから、その人達に劣等感を持って辛くなる。

人と関わらない選択をした日々の積み重ねが、友達と呼べる人がいない現状を招いた。


本当は人と話したい。そのためには自分から動かないといけない。人に関わりにいかないといけない。
そこに気付いた今なら、人のために動くことができる。
人からの誘いを待つだけではなくて、自分から人を誘える。


自分は他人に対して、あまりにも自分からはアクションを起こさないために、ついさっき数少ない友人まで失いかけていることに気付いて焦った。
正直、友達付き合いを増やしたいという気持ちは、ないものねだりをしているだけで、自分には必要ではないものを望んでいるだけで、もっと他のところに力を使うべきなのではないか、というような、人付き合いの必要性に対して、まだ迷いはあるけど。
人と関わらないから、人が苦手になっていくのは事実だと思うから。
ひとまず、その人達に対しては自分からも動こうと思った。
人と関わる時間を増やすために。


あと、人からのアクションを待つだけでは相手を疲れさせる関係となるとも思った。それは相互ではなく、片方だけフォローしているような。
お互いに気持ちよくなれずに、片方だけ必死な関係だと思った。
自分がそれをしていた。だから誘われることがなくなったのだと思う。
誘うことに関して、いや遊んでいる間も、相手に任せっきりだったから。
そう思って、自分からも動くことに決めた。


以上。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます


8/29追記
迷う必要なく、人付き合いをするのが、当たり前のことと気付いた。一緒に働く人達とか、しないといけない人付き合いがあることに気付いたから。それを避けるのは間違いだとわかった。
だから、人付き合いするか迷うという時点でおかしい。皆我慢してやっていることをやるかどうか迷うなんて何様だ、という話になるから。
無理して社交的にならなくてもいいかもしれない、多分、それでも最低限は必要だとわかった。
社会で生きるなら。
プライベートでまでたくさんの人と関わらないといけないとか、そういう無理難題を目指さずに、せめて会社の人達とは上手く付き合うということを目指すことが正しいと思った。
自分は人付き合いが上手い人間ではないから、プライベートでたくさんの人と遊びまくるということは現状相手がいなくて出来ない。
だけど、それは別に悪いことではないと思った。そういう向いていないだろう部分を、無理して伸ばそうとするのではなく、
とりあえず人付き合いに関してなら、同居している家族、会社で一緒に仕事をする人達とは、上手く付き合うようにする。
それを目標にすればいいと思った。

それは間違ってはいないはずだし、悪いことでもないだろうから。

以上。

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走る時の不思議

ランニングしている時に発見した不思議なことがある。

自分は基本的に朝方前、明るく前の時間帯に走っているのだが、年末とかはそれこそ誰もいないが、それ以外の普段は、基本、車は時々走っていて、人目があるといったらある。

今回発見したことは、走っている時に、きつくても元気よく、というか若々しくというか、早めに走るようにすると、長い距離走ることが楽になる。
反対にきつさを気にして、走るテンポ下げたり、きつそうな顔浮かべながら走ると、余計にきつさが増し、そのうち歩きたくなって歩いてしまう。長い距離走れにくい。

特に、すれ違う車とか、コンビニ前を通った時に、だるそうに走ってしまうと、致命的。
人にそう認識されると、そこを通り過ぎても、悪いイメージが残る。
それを残したまま、きつさを抱えて走ることになる。そうなるとかなりしんどい。

だから、走る時は、嘘でも元気よく、速く走るようにして、人とすれ違う時はきつくても、なんていうか、動じず前を向いたまま走ることだけに集中している姿を見せつけること。
人を無視することもリスクになるので(本当に気付いていないならいいが)極力すれ違う人には、走ることに集中する姿を見せないといけない。

上手いこと言えないけど、走ることと前を見ることに集中しながら、人も無視しないで元気な姿で見せる、というか走ることに集中しているという体裁を見せるというか。

これが上手くいけば、よほど相手がランニングする人間に恨みつらみを持っていない限りは、そのすれ違う時に、こちらは元気をもらえることになる。
そうすると、走りやすくなる。それだけで体が軽くなることもある。


ということに気付いたので、まとめてみた。


元気な姿見せると本当に元気になるということに気付いた。


以上。

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8月の生まれて初めて

今月、生まれて初めてした行動は、生まれて初めて何日間か続けて、スマホでニュースを読んだこと。(ちなみにヤフーニュース)

自分の興味のないことを知ろうとして、政治や知らない芸能人のことや地域のことなどのニュースを、一日四つか五つくらいだが、読んでいた。

知らない言葉や情報が知れるから、無駄ではないし、思ったより苦痛でもないということに気付いた。
頭を使うし、読んだ分疲れるけど。

それでも、暇を感じて何もしない落ち着きのなさを感じている時間で、ニュースを読めば一石二鳥だった。
その間、余計な考えごとをしなくて済んで、知らないことも知れる。

ということに気付いた生まれて初めて。

珍しくまともな生まれて初めてを書いている気がする。


以上。


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泣けるダークもの

漫画やゲームやアニメで、設定がダークなもので、上手く言えないけど、例えば幽々白書とか進撃の巨人とか雰囲気がダークな感じのもので、それなのに、人間ドラマがあって泣けるシーンがあるっていう作品が好きだ。

他にも例をあげるなら、ひぐらしのなく頃にとかダンガンロンパとか、ちょうど今日朝から読んでいる賭ケグルイとか。

雰囲気が暗いとか重いとかではなくて、闇の部分があるっていうか、ダークっていうか、そういう世界観で、王道展開で泣けるシーン、熱いシーンがある作品がものすごく好き。


救いがない話ははっきり言うと、読むと辛くなるから読めないけど、いじめの話とかヒロインがグチャグチャな化け物になるとか、そういう重たいダークではなくて、
そういった読むと苦痛になるところは控えめに描いて、万人受けを狙っている(といっても苦痛を感じる作品は万人受けを狙っているのかどうかがわからない、作者の意図を知らない)作品でダーク要素があるのが好き。


同じ言葉を繰り返しているが、やっぱり発行部数が歴代でも上の方にいく漫画は、ダークな作品でも、人の心を抉る描写はきつくならないように描いていると思う。
そうではない作品を否定するわけではない。ただ自分は、悲惨すぎる話が苦手なだけ。

鬼滅の刃も進撃の巨人も、重たくて悲惨だけど、なぜか読んでいて辛くはならない。

読めない悲惨な作品と読める悲惨な作品の違いが上手く言えない。


なので、例をあげてみる。

まず平気だった悲惨要素がある作品。

・進撃の巨人
・鬼滅の刃
・ひぐらしのなく頃に
・魔法少女まどかマギカ
・寄生獣
・AKIRA

平気ではなかった悲惨要素がある作品(批判や否定ではない、面白さよりも辛さが勝った作品)

・いぬやしき
・スクールデイズ
・結城友奈は勇者である

あまり多くはない。そういう作品は回避してるから。



ということで、多分グロいシーンや人が死ぬシーンがあっても、面白さや感動を感じられたら平気だけど、面白さ通り越して悲惨さが強すぎると耐えれなくなるのだろう。自分は。多分。

以上。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます

家も外も同じ条件

以前の勉強不足だった自分は、外ではちゃんとまともであろうと振る舞っていたが、家の中では世の中のルールが適用していないかのように思い振舞っていた。馬鹿だった。

そのため、外で気を張っている時は他人からの悪い空気を弾くことは出来ても、家の中で悪い空気を出している人のことは認識せず、悪い空気をそのまま受け取って、出来ることも出来ない、気力削られることに気付いていない状態で、ただただ家の中で腐っていた。

しかも時々そのまま外に出て、悪い空気を自ら出してしまうこともあり、なぜそうなるかわからず戸惑って苦しくもあった。

そして元気な人にフォローしてもらわないといけなくて、自身と関係ない人の負担まで増やしていた。

世の中を知らなくて、そういう失敗を毎日していた。

悪い空気を弾くことをできるのに、家の中では気を抜いて自由でいたいという思いから、人としての思考を放棄していたために、そんな落とし穴にはまっていた。

今思えば、家でも周りを見て、思考を続けて気を張らないといけないことは当然だった。
だって、家の中にも人がいるのだから。家に一人だとしても、近所にも人がいるから。

だから家の中の生活でも人間をやめたらいけないのだ。
家だろうが、外と同じ。どちらにいても世の中にいるので、ルールはあって、自分自身だって自分自身、居場所は違っても、同一の人間なのだから。

極端に外と家を分けたらいけないということだった。

以上。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます

悪い空気を弾き出す

ふと思ったことだが、生きるための方法として、
悪い想定をしてそれを回避するように、悪いものを回避しながら良くなろうとする方法と、
もう一つ、良い想定をしてそれを目指してストレートに良くなるようにする方法があると思った。

身近な人にネガティブな人ではないけど、悪い想定をしてそうなったら駄目だよと諭すタイプの人がいて、しかし皆が皆そうではないと思い、反対に良い方向を見据えて向かっている人もいるだろうと思い(そういう印象を受けた人を直接見たわけではないので、ただの想像だが)これを書いた。

自分もどちらかというと、悪い想像をしやすくて、不安も感じやすいので、回避するタイプである。
ただ、良いものを取り入れることもするので、わがままだ。
悪いものは弾き出して、良いものだけ残そうという神経を持っている。
そういう都合の良い生き方をしないと、悪いものは溜まる一方と気付いたから。
この最近で悪いものを弾くことを覚えて(というよりその感覚を、そうすることは間違っていなくて正しいことだということを思い出して)、外から流れてきた悪い空気や気質を弾くことを再開した。

これまで悪いものを受け止めて、離さずに生きたまま、損をすることが多かった。
世の中を知らなくて、意味もなくたくさんの負担を背負っていた。その生き方は愚の骨頂で、自分が損をして嫌われるだけで、誰も得しない、ネガティブそのものな生き方。
そんなことをしていた。何故だかいつからか、それが正しいという思考に陥っていて、それは気の弱さから悪い空気を弾けなくて、心はどんどん疲弊して弱くなるという悪循環という状態だった。いろいろな能力が低下するのも当然の結果、力の源の心が荒んでいたのだから。

しかし、ここ数日ではっきりと、悪い空気を突き放して、弾き出して、自分のものではないとはっきり意識して体(心)の外に出す、場合によっては特定の相手から流れてきたものと判断して、この気質や考えは自分のものではないという思いを強めることが、人として生きていくのに必要なことだとわかった。
あと悪い空気だけではなく、良い空気、心地よい空気もそれが人のものだとわかったなら、弾かないといけない。そもそも気というものにとらわれること自体が良くないから。全部弾いたほうがいいくらいだ。

一瞬どこからかやっていた、誰かの気質に逐一左右されていたら、自分の軸はぶれぶれになり、何をするにも一貫性がなく、そのうち目的や生き方も意図せずに変わってしまう。
だから感じた気は全部弾き出すべきだと悟った。

そんなことに気付いたのがつい最近のこと。
ちゃんと働くことを選んだから、そういう大事な感覚な舞い戻って来たのだろう。
だから、今これを書けている。

自分の一番好きな書くという行為が滞りなく、自由に出来るようになっている。
働く決意と実際に働いている状態だから出来ていること。
辞めればまた失うだろう。話は脱線したけど、最初の話をなぞるなら、辞めれば書くことも思考の自由も失うと知っているから、その悪い想定を回避するために、今の仕事を辞めてはいけないと思っている。
働き続けるという自己にプレッシャーを課す決意ではなく、失いたくないから辞めないという、悪い状況を回避するための決意をする。
今の自分を失いたくなくて、今の自分を保ちたいから。

といっても、若い身空で今を保つという決意もちょっと違うのかもしれない。
成長しないといけないから、だから最低ラインより下がらないよう現状は保ちつつ、新しいこともしていくというようなニュアンスで、保つという言葉を使わないといけないのだろう。

このブログ記事では、久しぶりの長文を書いた。

結論、気の弱さは損をする、いいわいいわで人に流されていては自分の意思を失う、それによるストレスは人に向けるのは筋違いなので、最初から他人の気を受け取らないよう弾き出しながら生きないといけない。
そのために人を悪者にしたとしてもいいから、悪いものは悪いとはっきり言えて、自分(自分らしさ)を守ることは大事なこと。
空気が読めないや、自分大好き、協調性がないと言われることがあっても、それを気にして自分らしさを失って一人勝手に生き辛くなっていては意味がない。
最低限の社会のルールは守りつつも、同時に自分も守りながら生きたり、働かないといけない。
悪い方向に進ませる気質や、落とし穴はそこらにあるから。そういうものに気を許して侵入されてしまうと侵入された本人だけが損をするから。
他人によって奈落の底に落とされても、落とされた自分が悪いということになり、どんなに嘆いても味方はいなくて現状も変わらない。それでも、余計なことばかり考えていないで、すぐさまその奈落の底から抜け出せば、その時周りの人からは良い評価をもらえる。

つまり、損をして嘆いても意味はない、誰も助けてくれない。
しかし、一瞬損をしてもすぐにその気分、空気から抜け出して(切り替えて)、自分らしさと正しい行いをすれば、人にちゃんと認めてもらえる。

ということに気付いた。
思ったよりも長くなった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。